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鳥取大学医学部脳神経小児科 開設50周年記念同門会誌:寄稿(原稿)  

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過疎地病院における小児医療19年目

国民健康保険智頭病院 小児科 大谷恭一

 1977年度の入局で、脳小在籍は実15か月強、研究面では底辺にいる劣等の門下生です。 

 竹下研三先生の方針に逆らい、ハイリスク新生児医療で赤ちゃんの脳障害を予防したい願いで、1980年4月、大阪に出ました。当時、鳥取県東部地域の医療水準が低く、大阪の水準を体で覚えました。縁・機会に恵まれ、1981年4月、鳥取県立中央病院に赴任しました。後年、日本小児科学会の全国調査が行われ、早期新生児死亡率などの指標が(:鳥取県内で致死的先天異常例や当時救命困難な在胎21-23週の出生児が少なかった要因もあり)1987年から3年連続で全国一優れていたこと、2002年、ユニセフのBaby Friendly Hospital に全国の自治体立病院で最初に認定されたことなどを思い出します 

 一方、門外漢が造血幹細胞移植の導入責任者となり、自家骨髄移植(当時)を国立がんセンター中央病院小児科の支援を得て、致死的症例での救命を果たし、1989年度発会の研究班員として3年間、臨床例を積み重ねたこと(当時、脳小から脳腫瘍の紹介例も)や、同年度から兼務で鳥取療育園の園長を拝命し、小児科の責任と共に学びの機会を得続けたこと。が、(初代・副院長格の)医療局長に任ぜられた際、大切な現場・療育園の園長職を解任され、失意の念を抱いたことなども、思い出しました。
 その約1-2年前に時間外診療中に単なる発熱の幼児を診て、(内心なぜ受診?との思いで)住所を確認したら、智頭町・・・とあり、お母さんを見たら「智頭町では子育てが出来ない!」と発言されました。 

 智頭病院には小児科医が長年常勤していました。が、ご家族の事情で退職された後、小児科医不足等があって、空白期間が続いていたのです。自身、後輩などに智頭病院への異動を促しましたが、該当者に出会えないままでした。

 一方、医療局長2年目の2003年度は、片山知事の無投票当選・2期目で、6月末の人事で病院局の充実が得られたことで、転職を熟考。7月初旬に院長に上申し、智頭病院への異動を願いました。院長の了解を得て、智頭病院長に電話したら、「明日からでも来てくれ!」と。 

 医療局長ですから、院長(・事務部長)から病院局に即時的に上申すべき事案です。が、県行政に不慣れな院長で、8月半ば過ぎになって、病院局に伝えることの是非を小生に問われて、内心絶句!小生の人事は、病院局に委ねられ、智頭町の要請を受け、年度途中・11月の異動が決まりました。その頃、智頭町では、小児科医の招聘について、候補として、小生の名が(漏れ)出ていたようで、町民有志による、小生の着任を歓迎するメッセージ付の署名活動が実践されてもいました。
 竹下先生は、小生が中央病院で職務を全うすることを当為としておられましたゆえ、またしても裏切る行動となりました。自身、中央病院勤務が続いたことで、初心を忘れていました。が、母に(県の管理職を辞して)過疎地病院の一人小児科医として地域医療を担う転職を話したら、「そのような憧れを話していた・・・」と発言。周囲が驚く中、母のみが自然自然体でした。

 2003年10月29日に中央病院で退職記念講演をし、31日に、知事室に招かれ、「県行政の推進に貢献した業績」での感謝状が授与されました。稀有なことです。

 智頭に異動後6年目の日本小児科学会学術集会シンポジウムで「過疎地病院における小児医療」の依頼講演に恵まれました。その後は、劇団四季の「慣れ・ダレ・崩れ 去れ!」を自戒の念として、現在に至っています。人口減の智頭町ですが、約15年間、小・中学校の児童・生徒数が変わらないのは、成育医療支援の成果と評せましょう。

 2009年度は当時のインフルエンザ汎流行に際して、智頭町・病院の理解・支援を得、集団接種を、12/23(祝)に309例など、土日等に成人を含め694例に実施し、注射は一人で担いました。
 今年度、新型コロナウイルス渦中、鳥取市の依頼を含め、約6,500接種(9/11現在)こなし得ています。智頭に異動後、一人小児科医として11月から19年目。
当時3-5歳だった子が21-23歳、0歳児が約18歳など、立派に育っている姿に接し得て、地域における小児医療の達成感を味わうこともできました。一方、診て来た子が、父・母になって赤ちゃんを予防接種等に連れて来るのも嬉しい限りです。

 転じて、還暦年以降、生涯研修と位置づけた自主・自立企画での西欧旅行を、ウィーン・スイスを主として重ねて来ました。また、大学1年目にマンドリンクラブとヨット部に所属し、2年目に後者から離れたことから、還暦を迎える年にカヤックを始めました。偶然、ネットオークションでゴム製のカヤックを入手し得たのです。英国Bestway社のWAVE LINEで、12年目を迎えた時点で弔いカヤックを体験しました。探していた同社の後継艇に昨夏出会え、12季目からはCOVE CHAMPIONが主力艇#です。新型コロナ渦中、西欧に出かけることが適いませんが、山陰海岸ジオパークエリア内で、[No!密]なカヤックに親しめていることに感謝しています。帰国後10日間の縛り解除後は、スイス、ウィーンでのカヤックも実現できる夢を抱く、齢71歳爺です。

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#:ウィーン(のAlte Donau)で業者が用いている米国Intex社のCHALLENGERは、一人乗り2艇、二人乗り1艇を保有。12年目の現在、独艇を含め5艇を保有し、家族三世代で出艇し得ています。
 カヤック11年目に初体験した古代大山の噴火による堰止湖である周囲3.4kmの多鯰ヶ池は、睡蓮の群落が各所に広がり、冬季を含め、計11回出艇しました。砂丘による堰止湖の湖山池と共に、浦富海岸などを含め、今後も出艇し続けると思います。わが人生、最終の出艇は何歳?(写真は多鯰ヶ池)

追記:個人HP検索[智頭病院小児科医の書庫][スイス悠々 wix]・・・
 wix を知り、現在25サイト以上を相互リンクさせたHP構成で、人生終活的備忘録としています。

(2021年9月吉日 心身の健康に恵まれていることに感謝しつつ)

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[50周年記念誌 拙文は72-74頁に掲載]

2022/7 日本の海外:沖縄・名護市で連泊し、本部半島のサンゴ礁の海でカヤック三昧をするに際して、新艇を購入し、一方、独艇は有志に譲り、計6艇(二人乗り1艇)を有しています。孫娘たちが一人で漕げるようになったための増艇でした。

​関心を抱かれる同門の方、ご案内可能です。ライフジャケットのみ持参で山陰海岸ジオパークエリアで湖上散歩(~海が凪なら、浦富海岸などでの海上散歩)はいかがですか?

​(同門会誌を拝受し、通読が一段落した2022/11/29記)

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◎ 同門会誌への寄稿から1年余:智頭病院勤務は20年目になりました。

過疎地病院一人小児科医冥利・・・ 森での健診&森のシャワー 2022/11/17

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